中野メリヤス創業ストーリー【2】青年時代から創業、紡ぐ想い
食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋、読書の秋。
11月になりましたが、まだまだ日差しは強いかと思いきや急に寒くなりましたね。
ジェットコースターな気温はさておき、草花の季節はきちんと秋。
紅葉がはじまりそうな気配を感じながら、栗ご飯が食べたいな。と思っています。
さてさて、そんなことより創業ストーリーの続きをお待たせいたしました。
秋の夜長に楽しめる読み物になれればと思います。
前回は、中野メリヤス創業ストーリー【1】はじまりの物語 と言うことで中野喜美の父、中野源一と母について書かせていただきました。今回のお話では現社長の中野喜美が和歌山を飛び出し、さまざまな経験を経て和歌山に戻り「中野メリヤス」を創業。その後のお話までお伝えいたします。
創業ストーリー。青年時代、父は反面教師
織物産業で栄えた高野口。
その華々しい時代の裏では人手不足と言う問題や博打が蔓延している時期もあり、それを見かねた喜美はこの場所から一番遠くに行きたい。と思うようになりました。
ファブリックを中心にしたインテリア商材を取り扱い、大阪に本社を構える大手企業の支店に就職。
勤務地は全国から選ぶことができましたが、迷わず「北海道」を自ら選択。
生まれ育った高野口とはまったく違うはるか遠くの環境へ飛び込みました。
それにしても…、
北海道、稚内。思っていた以上に寒い!寒すぎる。凍える!
というのは当時の心の声です。失礼しました。
(ちゃっかり、スキーを楽しんだりも。)
その当時はまだ北海道にはあまりインテリアというのが浸透していない、いわばインテリア未開の地。
カーテンやカーペットのファブリック関係をはじめとしたインテリアの営業で北海道を開拓していきました。
有名ホテルへの売り込み等、多くの経験を積みました。
そして5年ほど勤め「商売」というものを学ぶことができました。
ちなみに椅子張りの生地(金華山やレザーなどなど)の取り扱いもあったので、高野口とも少なからず関わりがあったのです。これこそ縁だと、今ではそう感じます。
なんだかんだとファブリック(生地)に関わる仕事をしている自分に気づき、和歌山に帰る事を決意。
この頃の世の中といえば、ニクソンショックや沖縄の本土復帰、日本と中国の間の国交が結ばれパンダが初来日したりと時代も激動していました。
そして24歳、和歌山にもどり、ご縁があり出会った女性と1年後に結婚。
まずは職人になるために、丸編機を習いに行く事に。
この頃は失敗しても許される年齢だったので色々挑戦し、どんなことも選ばずに取り組んで吸収し自分のモノにしていくことに専念していました。
教えてもらった職人はとても腕が良く無我夢中で丸網機を習っていましたが、ある時急にその職人がいなくなってしまいました。なんと師匠や高野口の職人が機械の使い方を教えるために海外(韓国や台湾)へと行ってしまったのです。
グローバル化が早い繊維、織物業界。
韓国、台湾は安い賃金でやってもらえる=生地が安くできるということでたくさんの工場が海外に作られました。
その結果、職人の技術も海外へと流れてしまい元々は欧米に生地を輸出していたが、職人たちが和歌山に帰ってきた時には仕事がほとんど韓国や台湾に取られてしまうようなカタチになってしまいました。
そういった高野口パイル産業自体が下降気味な時期ではありましたが、なんとかニクソンショックも切り抜けて昭和48年には当時のパイル(シール)織物は最高記録を記録したりと大きな成長を遂げました。
会社創業から販路開拓まで
その機会に満を持して1973年(昭和48)に創業。
最初は高野口の元請けから仕事を請け負い、ぬいぐるみ生地が主流で約15年ほどは工賃仕事でした。
その間にもさまざまな苦悩があり「自分で作ったものを自分で売らないといけない」と思うようになりました。
そもそもぬいぐるみは元請けがあり、すでに流れができてしまっていて商売としての伸び代があまり望めなかったのです。
どうしたらいいか考えて、考えて、考えて、「自分の足で売り込む」と決めました。
生地問屋がぬいぐるみ用に生地を販売するというルートに目をつけ、ぬいぐるみの生地の問屋さんにも営業をかけたり、生地問屋の開拓、海外では中国、韓国、台湾にも渡り販売、営業し、無我夢中で奔走しました。
シートカバー(車)、スリッパ、帽子、手袋、生地問屋ルート開拓に成功し、下請けもしながら自社の生地も販売という二足のわらじで経営はやっと安定し、ゴルフ・ヘッドカバー製造を目的とした製品部を開設。
ちなみに、1987年(昭和62年)には中国へぬいぐるみ用パイル生地を年間40万mを輸出。これは高野口パイルの産地のなかでも史上最高の長さを誇ります。
中野メリヤス工業を設立
そしてついに、1990年7月に中野メリヤス工業を設立しました。
翌年1991年には、フェイクファー衣料をニットにて開発し販売をスタート!
閑散期を売り上げ低迷を打破するために南半球、オーストラリア、ヨーロッパにも渡りました。
事業をどう充実させるか?を常に考えながら挑戦を繰り返しました。
質より量の時代に入り、さまざまなオファーが入るなかで多くの苦難もありました。
なんなら他社のコピー商品作ってくれ!といわれた事も。
そんな事をしたら、生地の価値下がる。と断り、理由を聞くと大きな取引のなかで仕方がない状態だったという事がわかりコピー商品を作らずに協力するという手段を取りました。
その後、高野口で商品のコピーしないように同業者間同士の取引もはじまるきっかけとなりました。
進化し続ける「中野」そして息子へのバトンタッチ
1994年 衣料品、洋品パーツ等の製造を開始。
1997年 高野口町伏原にて物流システムセンターが完成。
2000年 衣料用としてオーストラリアへ生地の輸出を開始。
2002年 exterialブランドを発足
実は新素材の開発では、和歌山県工業試験場と協力しフリース素材の特許を取得。
特許というと専売したりするイメージが強いですが、それだと「フリース生地屋さん」になってしまいかねない。
そもそも開発していたのもメリヤスの新たな可能性を発見する為で、他の人にも知って使ってもらう事が大切だと思っています。独り占めするのではなく、便利で必要なものを世の中に送り出す。そうする事で「少しだけ」でも良い。人の暮らしが豊かになることを願って…。
まだまだ沢山のストーリーがありますが、今こうして続けていられるのは自分たちの努力だけではないと日々感じており特に販売のネットワークがうまれたのは、関わった方々のおかげで本当に感謝しています。
実際、この産業は作り手(職人)がいないと成り立たない。
もちろん販売する事も大切ですが、下請け時代が長かった喜美は、職人の気持ちがわかるようになりました。
その気持ちをいかに汲んで、生地の価値観をお客さまに伝えるか?
「分業のなかで頑張っている職人の気持ちを伝えたい。」
高野口パイルというのは、関わったひとりひとりの気持ちが生地に編み込まれている…。
その想いを大切に「作り手と使い手」の喜びとはなにか?を追求しながらも、時の流れは速く気づけば50代。
後継者へのバトンをどう繋げるか。ということを考える時期になりました。
「老いては子に従え」
若い人が時代を切り開いていくもの。そう考え、息子である真行へと経営をバトンタッチしていくことにしました。
かけ足かつ、長文ではありましたが創業から自社ブランドexterial(エクステリアル)の立ち上げ、そして息子へとバトンタッチまでのお話でした。読んでいただきありがとうございます。
次回はもう少しだけ「想い」の部分だったり、exterialの意味をトピックスにさせていただきます。
その後は、秋冬のクラフトファー(フェイクファー、エコファー)新作情報やご要望頂いたファーの扱い方を動画でご紹介したりと盛り沢山ですので、お楽しみにお待ちいただければと思います。